谷口浩 社長

South Pacific Free Bird 株式会社代表取締役社長 / 谷口浩 氏

1972年、福井県生まれ。親との不仲のため、親に学費を負担してもらうことを拒み、中国政府のスカラシップを活用し、上海の同済大学物理学部へ進学。その後、建築学部に転部。のちに、自主退学。香港で不動産会社に就職。その後、タイ・バンコクで建築関係の職に就くもすぐにやめる。アジア金融危機(タイバーツの切下げ)により、お金に困り、帰国の航空券費用を、家業を継ぐことを条件に父に負担してもらう。帰国後、父が経営する建設会社に入社するも、1年後に父と衝突。会社を辞め、親との縁を切りバイクで家出する。バイクのガソリンが切れた石川県金沢市で起業を決意。中国とのコンサルタント協同組合を設立、4年間で年商3億円の規模に拡大させるが、白血病を発病(のちに誤診と診断)し入院、入院中に自分が「できること」を仕事にしていて、「やりたいこと」を仕事にしていないことに気付く。その頃に、とある縁から訪れたフィジーに興味を覚え、フィジーでの起業を決意する。2004年3月、South Pacific Free Bird 株式会社を設立。

試行錯誤の大学生活

僕は父親と仲が良くなくて、どうしても自分ひとりの力で大学に行きたかったんです。奨学金で行くことを考えたけど、奨学金は父親の納税証明書で600万円以上の収入があると、その子供には奨学金を出してくれないんですよ。それで、海外の政府からなら奨学金もらえるんじゃないか?と思って調べたら案の定、親の収入は関係なかったわけです。フルスカラーシップで、宿舎と授業料がタダ、お小遣いも少しもらえる、一番条件の良かった中国上海の大学に行くことにしました。当時の中国は、とにかくクラスも宿舎も汚くて、ネズミとかゴキブリもあり得ないほどいて、毎日毎日、明日帰ろうと思っていましたね。でも僕は物理学を勉強して、ノーベル賞を狙いたかったし、この世の中を数式で表したいと思っていたからすごく勉強しました。ところがある日、クルト・ゲーデルという数学者の「不確定性原理」を読んで、それができないことがわかり、もう自分の人生を全否定されたような気になりました。もう物理学が嫌だと思ったし、この世の中が気持ちが悪い世の中で死んでも良いなと思いました。その時、建築専攻の友達から、建築ならアートだからもっと楽だよ、と言われて、転部しました。ですがここでも壁にぶつかりました。建築とは、何が綺麗なのかを学ぶ学問なのですが、先生に何が一番綺麗かを聞いたら、どれが一番かなんてないって言われたんです。ないなら、僕らは一体何を勉強してるんだ?何が綺麗かわからないならいる意味がないと思って大学を辞めました。

大学後の破天荒な人生

大学はやめたものの、お金もないから、香港にいるアフリカ人の友達の家に居候して、大手の不動産会社で勤めることになりました。死ぬほど働きました。すると、初月からトップ営業マンになって、初任給が200万ちょいです。でも、そんな時に、タイのバンコクにある会社が建築の現場監督を探していたんです。不動産をやっているけれども家の建て方を知らないことに疑問があったから、仕事を辞めて、そっちの会社にいきました。でも、そこの社長がひどい人で、従業員をイヌネコのように扱うので、1ヶ月で、その建設会社は辞めちゃいました。その後は、なにをするでもなくタイのホテルに何カ月もいましたよ。お金がないから、イギリス人の彼女に食べさせてもらっていましたね。(笑)その時にアジア金融危機(タイのバーツの切下げ)がありました。自分が持っているお金が4分の1くらいになってしまって、ああこれはもうタイに住んでいられないと感じ、親に電話でお金を頼みました。すると、帰国の飛行機代の条件が、親父の会社の跡継ぎ、ということで、どうしようもなかった時ですから嫌々了承しました。でも1年ちょい働いて、やっぱり父親と折り合いがつかなくてやめてしまいました。やめるときは親子の縁を切ろうと思っていたので、財産放棄の書類を書いて、しっかり縁を切って家を出ました。

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